横川シネマで「人生フルーツ」見て来ました。

建築家の津端修一さん英子さん夫妻が50年暮らした団地の片隅の一軒屋での晩年数年が映されています。

海軍技術士官として厚木でマッカーサーを迎えた修一さんは戦争で焼失した住宅の建設こそ復興における自分用の役割と建築の道へ進みます。その修一村が東大在学中に国体の選手として合宿した半田市の造り酒屋の一人娘が英子さん。

修一さんは創設されたばかりの住宅公団へ入り団地開発の中心人物として高蔵寺ニュータウンの設計を任されます。此の高蔵寺というのは伊勢湾台風でゼロメートル地帯が壊滅した為その高台移転として企画されたものでした。修一さんは里山を思いお起こすように元の稜線を生かした雑木林を残し風が通り抜ける計画を立てましたがそれは経済的でないということで変更されました。完成後の1970年に夫妻は団地内の集合住宅へ入居するものの5年後に団地の端に300坪の土地を購入しそこは尊敬するアントニン・レーモンドの自邸を模した30畳一間の平屋建の家と畑と林をつくります。

ほとんどが畑と果樹園の自給自足。年金が入ると英子さんがバスと電車を乗り継ぎ栄町まで足りないものを買い物に出ます。その買い物をする店は数十年変わらず。お店の人は代替わりしてますけど親父の頃からの付き合いなんでと親切に接してくれます。そしてその影には修一さんからのまめなお礼のハガキがあるのでした。

高蔵寺への移住は「建築は生活を豊かにするものでなければならない」という修一さんの考えがありました。更には自分の手がけた住宅を人々の故郷にしたいという思いもあったのでしょう開発できるハゲ山となった場所に植林をして里山を再生していきました。自邸も50年前に植えた苗が雑木林となりその枯葉を撒いた畑では年間100種もの作物がとれるようになりました。

修一さんは90歳で九州の精神病院建設の仕事を受けます。それは経済社会の中で疲弊し感謝となった人達を手助けするにはどのような建築にしたらいいか教えて欲しいという医療現場からの手紙に応える形で受けたものでその大筋と道をつくると畑仕事あとの昼寝から目覚めることなく生涯を終えられました。

エンディングは修一さんの遺影を持った英子さんが伊万里に完成した病院を訪れる所で終わります。

全編を通してゆっくりと2人の時間を大切にする夫妻の生活の中が映し出されています。家も道具も夫妻と同じように長い間過ごして来たものばかり。つくるのも直すのも自分らでやると何か得るものがあるはずだからと修一さんは全部自分でやっちゃう。その分夫婦一緒に過ごすことが出来る。この映画をみていると根本にあるのは修一さんの「幸せな住宅を作ることが建築家の仕事である」という考えだったのではないでしょうか。

好評につき横川シネマで5・6月と再上映されますので興味が湧いた方は是非ご覧ください。

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