フガドコ

広島見るもの歩くとこ

映画

原作を知った時から是非見たかった映画でした。

舞台は1943年、ドイツ占領下のフランスでは子どもだけでもナチスの目から隠そうと支援組織に預けるユダヤ人の親がが少なからずいました。主人公ファニー達3姉妹も山の中の児童施設に匿われていましたが密告により追われイタリア北部へ避難します。そこでもムッソリーニの逮捕により同盟関係から直接支配に切り替えたドイツ軍から逃れるために施設責任者のマダム・フォーマンと共に林間学校へ行くと身分と目的を偽りスイスへの逃亡を図ります。その過程でマダムや引率者の青年を失い13歳のファニーが「頑固だからやり遂げられる」とマダムに説得されて9人の子どものリーダーとなります。

道中で密告や匿い、対立と和解などを経て一行はスイスへと逃れます。警官達に監禁された部屋でなぜ逃げなければならないかを知らない末の妹が年上の少年に「悪いことならユダヤ人をやめたら」と問いかけた場面があります。そんなことできるわけではない、理不尽な理由で過酷な逃避行をしなければならなかったファニー達の厳しい立場を象徴する場面であったと思います。

空腹なままでの市民の目から逃れながらの逃避行とひとつ選択を間違えれば命を失うという緊張のの連続に子ども達が耐えられたのは生き抜こうという意思と理不尽さと大人達への怒りをファニーがで持ち続けたからなのでしょう。

 大戦中に協力組織が数千人のユダヤ人の子どもを国外へ逃したそうです。マダム・フォーマンは実在の複数の協力者を一人にした人物でしたがファーニー達3姉妹は実在の人物でした。実在のファーニーは現在はイスラエルのテルアビブ在住1946年にフランスへ帰った3姉妹は両親とは再開することはなかったそうです。
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横川シネマで「人生フルーツ」見て来ました。

建築家の津端修一さん英子さん夫妻が50年暮らした団地の片隅の一軒屋での晩年数年が映されています。

海軍技術士官として厚木でマッカーサーを迎えた修一さんは戦争で焼失した住宅の建設こそ復興における自分用の役割と建築の道へ進みます。その修一村が東大在学中に国体の選手として合宿した半田市の造り酒屋の一人娘が英子さん。

修一さんは創設されたばかりの住宅公団へ入り団地開発の中心人物として高蔵寺ニュータウンの設計を任されます。此の高蔵寺というのは伊勢湾台風でゼロメートル地帯が壊滅した為その高台移転として企画されたものでした。修一さんは里山を思いお起こすように元の稜線を生かした雑木林を残し風が通り抜ける計画を立てましたがそれは経済的でないということで変更されました。完成後の1970年に夫妻は団地内の集合住宅へ入居するものの5年後に団地の端に300坪の土地を購入しそこは尊敬するアントニン・レーモンドの自邸を模した30畳一間の平屋建の家と畑と林をつくります。

ほとんどが畑と果樹園の自給自足。年金が入ると英子さんがバスと電車を乗り継ぎ栄町まで足りないものを買い物に出ます。その買い物をする店は数十年変わらず。お店の人は代替わりしてますけど親父の頃からの付き合いなんでと親切に接してくれます。そしてその影には修一さんからのまめなお礼のハガキがあるのでした。

高蔵寺への移住は「建築は生活を豊かにするものでなければならない」という修一さんの考えがありました。更には自分の手がけた住宅を人々の故郷にしたいという思いもあったのでしょう開発できるハゲ山となった場所に植林をして里山を再生していきました。自邸も50年前に植えた苗が雑木林となりその枯葉を撒いた畑では年間100種もの作物がとれるようになりました。

修一さんは90歳で九州の精神病院建設の仕事を受けます。それは経済社会の中で疲弊し感謝となった人達を手助けするにはどのような建築にしたらいいか教えて欲しいという医療現場からの手紙に応える形で受けたものでその大筋と道をつくると畑仕事あとの昼寝から目覚めることなく生涯を終えられました。

エンディングは修一さんの遺影を持った英子さんが伊万里に完成した病院を訪れる所で終わります。

全編を通してゆっくりと2人の時間を大切にする夫妻の生活の中が映し出されています。家も道具も夫妻と同じように長い間過ごして来たものばかり。つくるのも直すのも自分らでやると何か得るものがあるはずだからと修一さんは全部自分でやっちゃう。その分夫婦一緒に過ごすことが出来る。この映画をみていると根本にあるのは修一さんの「幸せな住宅を作ることが建築家の仕事である」という考えだったのではないでしょうか。

好評につき横川シネマで5・6月と再上映されますので興味が湧いた方は是非ご覧ください。

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サロンシネマでデンマーク映画の「ヒトラーの忘れ物」を観ました。第2次大戦時ドイツ降伏後デンマークで地雷除去に従事させられた捕虜となった少年兵達を史実を題材にした映画です。

少年兵12名(後に2名追加)を預けられた軍曹も宿となった農家も露骨にドイツ兵なんか死んでしまえばいいという態度と行動で食事も支給されず家畜の餌を盗んで食中毒起こしたりするのですが目の前で一人また一人と死んでいくのを目の当たりにし擬似的な父親に変化する軍曹と絶望的な状況の中で終われば帰らせてやるという軍曹の言葉だけを望みに作業を続けていくのですが少年兵の描写がこの映画の1番の見どころです。少年兵はほとんど演技経験がなく劇中見られる上下などの人間関係も撮影中に生じたものそのままというのがリアリティを出しています。撤去中や輸送中の事故で14人中4人にまで減り国へ帰らすという約束も反故にされ次の場所に送られた時に軍曹が取った行動で・・というところで映画は終わります。

当初地雷除去の先駆者をテーマにしようとしたら海岸近くに数多くの戦後すぐの歳若い兵士の墓が多くあるので何故?というところから企画が始まったぐらいデンマーク国内でも少年兵に地雷除去をさせたことは知られていませんでした。まともに扱った資料もほとんどないぐらい目をそらされていたわけです。もちろん戦争捕虜の強制労働させることはジュネーブ条約に違反なのですが、ただドイツとデンマークは交戦国ではなく保護国だったので捕虜として扱わレませんでした。そしてこの作業を立案・指示したのはドイツと交戦したイギリス軍で主人公の軍曹も対戦中はイギリスに渡り軍事訓練を受け劇中でもイギリスの軍服を着ていました。


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